2017.03.21
エルメスの元副社長、日本の職人技を現代につなぐ【前編】
百貨店黄金時代の80年代、日本のデザイングッズを扱うセレクトショップをパリにオープン!
百貨店が大きな力をもっていた80年代。「パリ三越」の現地駐在員として欧米の商品や文化を日本に伝えるうちに、今度は日本の商品をヨーロッパの人に伝えたいと思った。目指したのは、日本のデザイングッズを紹介して売るセレクトショップをパリにオープンさせること。
2017.03.21
百貨店黄金時代の80年代、日本のデザイングッズを扱うセレクトショップをパリにオープン!
百貨店が大きな力をもっていた80年代。「パリ三越」の現地駐在員として欧米の商品や文化を日本に伝えるうちに、今度は日本の商品をヨーロッパの人に伝えたいと思った。目指したのは、日本のデザイングッズを紹介して売るセレクトショップをパリにオープンさせること。
1952年静岡県生まれ。1971年に渡仏し、パリ第1(パンテオン・ソルボンヌ)大学卒業。その後、フランス三越株式会社に入社し、在職中に日本のデザイングッズを扱うパリのセレクトショップ「SHIZUKA」を企画運営。1992年、エルメス・インターナショナルに入社し、1998年エルメスジャポン代表取締役社長に就任。同社をエルス最大の海外支社へと成長させ、2008年〜2015年までエルメスパリ本社副社長に就任。現在はシーナリーインターナショナル代表であり、パリの「アトリエ・ブランマント」総合ディレクターを務める。新感覚のフットウエア「イグアナアイ」の紹介なども行う。
Paragraph 01
「あの頃はパリに行くこと自体が目的だったので、いざパリで暮らしてみたら何をしていいかわからなくなって……。突然、自分のアイデンティティが見えなくなってしまったのです」
“あの頃”とは、1971年のことである。
この物語の主人公である齋藤峰明さんは、80年代に「パリ三越」の駐在員として、フランスの商品やブランドの開発に携わり、90年代以降はエルメスに身を置き、エルメスジャポンを同社最大の海外支社へと成長させ、後にエルメス本社で副社長となった唯一の日本人である。そして現在は、日本の職人技術を駆使した新たな商品をパリから発信する「アトリエ・ブランマント」の総合ディレクターを務めている。つまり、齋藤さんは約半世紀にわたって、フランスと日本の物作りや販売に深く携わってきた人物なのだ。
話を“あの頃”に戻そう。
1971年、フランスの前衛芸術や哲学に憧れて19歳で単身パリに渡った齋藤さんは、自分の存在意義について悩み、「ひとりでやっていてはダメだ。社会とのつながりがない限り、自分の生きる場所はない」という考えにいたる。そして、自分の居場所を作るために、パリ第1(パンテオン・ソルボンヌ)大学の芸術学部に入学。在学中に「三越トラベル」でのアルバイト経験を経て、1980年に三越に入社して、「パリ三越」の駐在員となるのだ。
*1
元エルメス本社副社長・齋藤峰明が総合ディレクターを務める、日本の良品をパリから世界へ発信するために2016年1月パリ・マレ地区にオープンした物販スペース併設のギャラリー「アトリエ・ブランマント」。月替わりで日本の様々な文化をイベント形式で紹介。
ATELIER BLANCS MANTEAUX
住所:38 rue des Blancs Manteaux, 75004 Paris
http://abmparis.com
Paragraph 02
1980年代と言えば、三宅一生や川久保玲、山本耀司らがパリコレクションに参加した頃で、日本のファッションが注目されはじめた時代。同時に、百貨店が大きな力をもっていた黄金時代でもある。当時は日本人が欧米のライフスタイルを積極的に取り入れはじめた頃で、百貨店はファッションだけでなく、消費者に向けて欧米の文化全般を発信する重要な役割を担っていた。
「パリ三越」の現地駐在員となった齋藤さんの仕事は多岐に渡っていた。たとえば、ファッションや食、インテリアや雑貨など、フランスのあらゆるジャンルの商品をいち早く買い付けて、トレンド情報と共に日本人に提供する。将来有望な若手デザイナーを見つけて、日本に導入するための交渉を行うこともあった。それら最先端の情報は、もっぱら自らのアシで仕入れていたという。
「パリで行われるコレクションや展示会はほぼすべてと言っていいくらい見てまわり、ありとあらゆる商品に触れました。レストランがオープンしたら必ず食べに行き、新しい店や道なんかもすべて把握していました。当時はパリのことはフランス人よりもいちばん知っていると自負していたくらいですから(笑)」
時には田舎のワイナリーを巡り生産者に会うことも。そして新しいワインを発掘すると、ただ紹介するのではなく、ワインが生まれる背景やストーリーを含めて伝えるよう心掛けたという。さらに、三越向けのオリジナル商品を企画して、ヨーロッパの職人に作ってもらうことも始めた。今で言う“百貨店コラボの先駆け”である。
ちなみに、当時「パリ三越」でフランス語が最も堪能だったのは齋藤さんであったため、日本とフランスの橋渡しはすべて彼に集中した。海外に販路を求めた日本メーカーの社長が齋藤さんを頼ってきたこともあれば、フランスの高級ブランドの社長や新進気鋭のデザイナーにも直接会って交渉もした。若くして人脈は増える一方で、本人いわく「ラッキーな環境だった」という。
「『パリ三越』で働くうちに、自分と社会との関係性ができていき、自分が社会の役に立っているという感覚を感じることができたのは大きな収穫でした」
それは、19歳の頃に「社会とのつながりがない限り、自分の生きる場所はない」と考えた齋藤さんが、初めて自分の居場所を見つけた瞬間だったのかも知れない。このようにフランスの商品を日本に伝えることに喜びを感じていた齋藤さんだが、徐々に気持ちに変化が訪れる。1985年の頃である。
Paragraph 03
「ずっとフランスの商品を日本人に提案ばかりしていたので、今度は日本の商品をフランスに紹介したいと思い始めたんです。何故かと言うと、当時のフランス人が持っていた日本のイメージは、『フジヤマゲイシャ』の古めかしい伝統的な世界か、『ウォークマン』に代表されるエレクトロニクスの2つしかなかったから。フランス人には日本の一部しか伝わっていなくて、この2つの領域を埋める部分を伝えて日本を理解してもらいたいと思ったのです」
それを言葉にすると、“日本人の感性が息づいている、懐古主義ではない、現代のデザイン”である。目をつけたのは意外にも「雑貨」であった。
1985年の当時は、「東急ハンズ」や「ロフト」は若者たちで賑わい、原宿や代官山といったファッションの街に雑貨を集めた専門店が登場し、雑貨がお洒落なアイテムとして注目され始めた時代であった。そんな時流のなかで、「日本の新しい雑貨をフランスで売る店をパリに作りたい!」と、齋藤さんは考えたのだ。もちろん、パリで店を作るためには会社の承認が必要だ。そこでユニークな秘策に出る。
「直接、本社に行って社長の前でプレゼンをしました。企画書を書いても、稟議書をあげているうちに、社長に届く前につぶされるじゃないですか。そうならないように、社長に直接やりたいことを見せるプレゼンの時間をもらったのです。朝から日本橋の三越本店を駆け回って、あらゆる商品のなかから自分が面白いと感じた物をピックアップして、社長室の10mはある大きな机に置けるだけ商品を乗せて(笑)。で、『こういう物をパリで売りたいんです!』って商品をプレゼンしたんです」
いきなり現物を並べてプレゼンを行うとは、なんとも型破り。商品セレクトにも独自の目線があった。
「たとえば、すりこぎ。社長には『こんなカタチの器で中に彫刻があるものはパリの人は絶対に見たことがない! 果物を置いたりして器として使ってもいいんです』と伝えたのです。後は軍手とか。軍手ってあんなに便利な物なのに、パリの人はまったく知らない。それも、ただ売るんじゃなくて、『東京のタクシードライバーが使っている手袋ですよ』って、言うと向こうの人にはエキゾチックに見えるでしょうって(笑)」
大切なのは、「パリの人たちに日本の商品がどう見えるか?」。そんな齋藤さんの目線は日本人のそれとはまったく違っていた。ほかにもこんな話が。
「フランスで色鉛筆を作るとせいぜい5色くらいですが、日本はマーケットが大きくて競争が激しいので、メーカーが20色くらい作るんです。それをフランス人に見せると非常にビックリする。売れるのは数本でもいい、大切なのはこの驚きなんです」
独自の目線とセンスが光る型破りなプレゼンは社長の心を動かした。その場で社長からOKをもらい、パリに日本の物を売るショップをオープンすることが決定したのだ。
Paragraph 04
1987年、「パリ三越」1号店の跡地に、日本のデザイングッズを扱う「SHIZUKA」がオープンした。1階は雑貨を並べたショップで、地下1階はギャラリースペース、ここで展覧会やイベントを行った。齋藤さんは「日本の物を売るだけでなく、情報も発信していきたい。ハードだけでなくソフトも提案していきたい」と考えた。そこでオープニングは、当時、新進気鋭作家として注目されていた日比野克彦氏の段ボールを使った作品を展示。また、売り場にも独自の考えを反映した。
「売り場をライフスタイル別に分けました。仕事ならトランクやアタッシュケース、休むならクッション、食べるならキッチンツール、遊ぶならアウトドアグッズなど、ライフスタイルごとに切って展示したのです」
日本の商品を売るだけでなく、日本の情報やライフスタイルなどを伝えるためには、単品の商品としてではなく「群」として世界観を見せるのがいちばんだと考えたのだ。昨今、アパレルブランドを中心にライフスタイル全般の商品を扱うショップが増えているが、「SHIZUKA」はその走りと言えるだろう。
「SHIZUKA」はオープニングから建築家やデザイナーなど、感度の高いパリの人たちに注目された。そして、扱っていた日本の商品は飛ぶように売れた。何故なら、そこにはトレンドに敏感なパリジェンヌがまったく見たことがない日本の現代デザインがあり、それは「SHIZUKA」でしか買うことができなかったからだ。好調な滑り出しであった。だが……。
Paragraph 05
好調な滑り出しを見せた「SHIZUKA」であったが、80年代後半にまったく別の角度から問題が浮上する。
「そのうちにね、円高になってきたんですよ……。日本から商品を持ってくると、円高で値段が上がり過ぎてありえないほど高く値付けをしないといけなくなる。そこで、ヨーロッパでの現地生産に切り替えたのです」
たとえば、オランダのガラス工場で皿を作るなど、日本のセンスとクオリティを基にヨーロッパでの生産がはじまった。
「当初から1店舗だけの運営で採算をベースにのせるのは難しい」と考えていたため、「SHIZUKA」の商品を海外に卸すことにも挑戦。フランスやドイツの見本市などに出展し、結果としてフランス、ドイツ、イタリア、スペイン、イギリス、オランダのショップに商品を卸すことに成功する。着々と販路を伸ばし、ビジネスはそれなりに広がっていった。
とはいえ、齋藤さんは「SHIZUKA」を運営しながら、「パリ三越」の駐在員として海外戦略などにも参画していたので、忙しさは増すばかり。仕事でヨーロッパ中を飛び回る毎日で、私生活の時間はゼロ……。
「あの頃は、毎日は楽しくてしょうがなかったのですが、これを続けていると自分がなくなってしまうとも思いました」
同時にヨーロッパの職人たちと物作りを行ううちに新たな想いも芽生えてきた。
「よい物を作っても消費者にその良さを伝えないと売れません。デザイナーや職人がやっていることを魂まで伝えたい。物を作って販売するという風上から風下まで全部を手掛けたい。そんな想いが生まれてきました。そうすると、駐在員という立場では無理なのです」
そろそろ区切りをつけようか?
そんなことを考えていた折に、エルメスから依頼がきた。
「うちで働いてくれないか」
齋藤峰明さん、40歳の頃である--。
TEXT:藤井たかの
PHOTO:岩本良介