2017.03.21
エルメスの元副社長、日本の職人技を現代につなぐ【後編】
エルメスの職人に感銘を受け、日本の物作りを発信する店をパリに作る! 2016.12.22
「パリ三越」の駐在員であった齋藤峰明さんが、40歳で選んだ次のステージはかのエルメスであった。フランスの伝統的な職人技を敬うエルメスに身をおき、職人たちと接するうちに、自身のルーツである「日本」の職人への関心は強くなっていく……。
2017.03.21
エルメスの職人に感銘を受け、日本の物作りを発信する店をパリに作る! 2016.12.22
「パリ三越」の駐在員であった齋藤峰明さんが、40歳で選んだ次のステージはかのエルメスであった。フランスの伝統的な職人技を敬うエルメスに身をおき、職人たちと接するうちに、自身のルーツである「日本」の職人への関心は強くなっていく……。
1952年静岡県生まれ。1971年に渡仏し、パリ第1(パンテオン・ソルボンヌ)大学卒業。その後、フランス三越株式会社に入社し、在職中に日本のデザイングッズを扱うパリのセレクトショップ「SHIZUKA」を企画運営。1992年、エルメス・インターナショナルに入社し、1998年エルメスジャポン代表取締役社長に就任。同社をエルス最大の海外支社へと成長させ、2008年〜2015年までエルメスパリ本社副社長に就任。現在はシーナリーインターナショナル代表であり、パリの「アトリエ・ブランマント」総合ディレクターを務める。新感覚のフットウエア「イグアナアイ」の紹介なども行う。
Paragraph 01
980年代後半、「パリ三越」の駐在員として、日本のデザイングッズを扱うセレクトショップ「SHIZUKA」を運営し、三越の海外戦略などにも心血を注いでいた齋藤峰明さん。多忙な日々を送るなか、エルメスから「うちで働いてほしい」と依頼があったのは、齋藤さんが40歳の頃であった。
説明の必要もないだろうが、エルメスは1837年に馬具工房からスタートしたフランス屈指のラグジュアリーブランドだ。ブランドを代表する「バーキン」や「ケリー」といった高級バッグは、世界中の人の憧れとなっている。
そんな世界のトップブランドであるエルメスが、齋藤さんに白羽の矢を立てたのだ。実はエルメスには「マルチローカル主義」というものが存在する。「現地のことは現地の人がいちばん良くわかる」という考えのもと、海外に進出する際は現地の人間を採用する方針を貫いてきた。日本で本格的にエルメスを展開するにあたり、日本とフランスを知り、企業の文化を伝えられる日本人がトップにいる必要があるとエルメス側は考えていた。齋藤さんは「パリ三越」でバイヤーの経験があり、小売りビジネスを把握している。フランス語も堪能だから、エルメスの文化を学び、それを日本語で伝えることができる。これほど相応しい人物はいなかったのだ。とはいえ……。
「てっきりフランスのエルメスで働くという話かと思っていたら、日本の支社で働いて欲しいという話だったのです。私は19歳から40歳までパリで暮らしてきましたから、これから日本で働くのはどうかと思って最初はお断りさせていただきました」
その後、「どうしても社長に会って話を聞いて欲しい」と再度連絡があり、エルメスの五代目、前社長であるジャン・ルイ・デュマ・エルメス氏と合うことに。そのときに案内された工房で見た光景が、後の人生を変えた。
「デュマ社長のことを職人みんなが個人的に知っていて、とにかく会話が絶えないのです。社長が会議に行くまでに職人と話し込んで、会議に遅れるなんとことがザラにありましてね。エルメスは昔から職人が物作りを行ってきたので、自分たちが高級ブランドだという感覚がまったくないようでした。会社というよりも人の集団だったのです」
日本の場合、職人は仕事を受ける側の立場であり、発注する側よりも立場が低く見られがちだ。だが、エルメスにそういった空気は皆無。経営のトップと現場の職人がフラットな関わりをもっていることに驚いた。
「エルメスという企業と職人は、単に仕事を供給する、供給される関係ではなく、もっと人間的な関わりを育んでいると感じました。職人を大事にする素晴らしい会社だと思い、エルメスでなら日本で働いてもいいと思ったんです」
Paragraph 02
齋藤さんは、社長になることを前提に1992年にエルメスジャパンの営業本部長の任に就く。40歳にしてはじめて日本で働くことになるのだ。ミッションは、日本にエルメスの文化を伝えること。
実は今でこそエルメスは、日本においてラグジュアリーブランドとして確固たる地位を獲得しているが、1992年当時は高級スカーフのブランドというイメージが強く、一昔前の保守的な高級ブランドというイメージだったのだ。
「日本にエルメスの凄さが伝わっていない、それをもっと伝えなければと感じました」
エルメスのルーツが革製品であること。職人が高度な技と想いを込めて丁寧に作っていること。使ってもらうことに意味があると考えていること。そういったエルメスの哲学を日本に浸透していく必要があった。
「まずは物を売るよりも、エルメスの文化を紹介することが大切だと思いました。そこで展覧会を開いてフランスの職人を呼んでスカーフのプリントを実演し、バッグの修理なども実演しました。物作りの現場を見せることで、エルメスの物作りと日本の昔ながらの物作りが同じであることをアピールしたのです」
同時に日本人のスタッフにもエルメスの想いや哲学を伝えることにも注力した。
「社員の役割はフランスの職人が込めた想いを、日本のお客様にきちんと伝えることです。そこで、20名ほどの社員を集めて、パリ本店での研修に送り出し、職人の工房も見てもらい、エルメスの精神にふれてもらう機会を作ったのです」
エルメスの哲学を全面に押し出すことで、日本での売り上げはどんどん上がっていったという。「日本はよい物を大切に使うという文化がある国。それはエルメスの文化や価値観と同じものだと思います」と齋藤さんは話す。昔から変わらず職人たちが丁寧に作るエルメスの商品は、日本人の共感を得ることができたのだ。
いつしか、エルメスジャポンはエルメス最大の海外支社へと成長していた。
Paragraph 03
エルメスの物作りと日本の物作りが似ていることをアピールし、日本でのエルメスの地位を揺るぎないものとなった。だが、両者の物作りには明確に違う点もあったという。
「フランスでは19世紀に生活様式が変わり、馬車からクルマへのライフスタイルに変化していきました。馬具から始まったエルメスは、時代に合わせて革を加工する技術を応用して鞄をつくり、馬具のクサリをアクセサリーにしました」
エルメスは常に自分たちが世の中でどの価値を提供できるかを考え、時代に合わせて変化してきたのだ。
「かたや日本は、明治時代にいきなり西洋文明が押し寄せ、大正時代までは和洋折衷でした。それが戦後になると一気にアメリカ型の大量生産・大量消費の時代になり、伝統工芸だけがポツンと取り残されてしまったのです。エルメスが革を加工する技術を使って時代に合わせて新しい物を作ってきたように、日本の伝統工芸も古い物ばかり作らないで、自分たちが今の時代に提案できるものが何かをちゃんと見定める必要があります」
加えて、作り手と使い手の距離感にも違いを感じた。
「日本の伝統工芸の職人は守られていると同時に、孤立していると思います。今は職人がいて、問屋があって、流通業者があって、お店があって、顧客がある。そのため職人は顧客が求めていることを知りません。でも、そもそも日本の物作りは顧客の意見を反映して行うものだったはず。京都でも金沢でも、昔の顧客は公家や大名です。そういった人が職人を呼んで物を作らせてきました。エルメスの物作りがまさにそうで、19世紀に工房ができたときに、職人が馬具を作り、お客さんが実際に乗ってここをこうして欲しいと細かいオーダーをする。そうやって“うるさい顧客”に職人が育てられてきたのです」
これは大昔の話だけではない。今でもエルメスは新しい商品を作るときに、職人とデザイナーと営業担当者が集まり、技術とデザインと客の声を入れた意見を言い合いながら一緒に進めていく。客とできるだけ近い距離で物作りを行い、顧客の反応を真摯に聞くことを続けてきた。エルメスは職人と客が近い距離で物作りをしてきた企業なのだ。
そうして、フランスの伝統的な技術を敬うエルメスに身をおき、職人たちと接するうちに、自身のルーツである日本の職人への関心は自然と強くなっていった。齋藤さんは2008年から2015年まではエルメスパリの本社副社長に就任し、その後エルメスを退社する--。
「私は40年間フランスと日本で働きましたが、あと20年間人生が残っているとして、最後の20年は社会に役立つことをしたいと思いました。エルメスの哲学や手法を知り、フランスと日本の両方の文化に精通している自分だからできることをやりたいと思ったのです」
Paragraph 04
日本の職人への想いを胸に、齋藤さんが2015年1月にパリのマレ地区にオープンさせたのが「アトリエ・ブランマント」だ。こちらには日本の伝統工芸の職人とヨーロッパのデザイナーによるコラボレート作品が置かれている。
「物は使われてはじめて価値が出ます。そして、産業としてはいま使われる物を作らないと意味がありません。日本には作る技術はたくさんありますが、それで工芸品を作っても、現代のライフスタイルにはそぐわない。昔のデザインのままでは今の消費者には通用しないので、現代に合うように編集する必要があるのです」
日本の価値ある技術と海外のデザイナーがタッグを組むことで、現代の消費者が手に取りたくなるような新たな商品を生み出す。それは350年の伝統を受け継ぐ二唐刃物鍛造所の技術をもってドイツ人デザイナーがデザインした刃物であったり、吉野杉を使った繊細な木工技術を用いてフランス人デザイナーが作ったスピーカーだったりする。また、着目すべきは、このアトリエの目的はあくまで、「販売」であることだ。
「海外の展示会に出展している日本のメーカーはありますが、それだけで終わっているケースが多い。海外でお客さんが来てくれて、『いいね』と言ってくれるけど、物は売れない……。なぜ売れないのか? そもそも物が売れるためには価格の問題があり、マーケティングやPR、営業なども必要です。一度、お披露目をしただけでは、簡単に物は売れません。『アトリエ・ブランマント』は単なるギャラリーではありません。発表の場ではありますが、PRや営業の人間が在籍しています。年間を通じてプロモーションを行い、見込みがある客には営業マンが働きかけます」
また、展示というと最終的に商品に落とし込むことを考えがちだが、日本独自の素材を提案して建築家やインテリアデザイナーなどに使ってもらうという選択肢もある。そのため、「アトリエ・ブランマント」では直接ユーザーが商品を購入できるBtoCと、素材などをプロが扱うBtoBの両方に対応できるようになっているのだ。
Paragraph 05
「アトリエ・ブランマント」のもうひとつの特徴は、物作りから販売までを一貫して行っていること。作り手の想いを使い手に伝え、使い手のこういうものが欲しいという意見を作り手に伝えて、物を作ることができるシステムだ。
「作り手と使い手の距離を短くした物作りこそ、今後、海外で日本の商品を売るために必要なことです。そのために私は川上(商品開発)から、川下(販売)まで全部やらないといけない。京都の職人に会って、『いま必要とされるものはこういうもので、みなさんがもっている技術で現代に提供できるのはここですよね?』といったディスカッションを重ねて、意識改革から行うのです。これは単純に海外のデザイナーを間に入れればいいという話ではありません」
グローバル市場のニーズを職人に伝え、物作りの根底から一緒に考える。商品化した暁にはパリのショップで販売し、消費者の反応や声を聞き、それを作り手にフィードバックする。これは戦後の大量生産・大量消費による物作りとは真逆のやり方と言える。
「21世紀は使い手が物を知った上で、じっくりと使い込んで行く時代です。生産量は少なくても質が良くて、愛着がわくものを慈しんで使うことで、身も心も充たされた生活を営むことができるはず」
いまは“それなりのものを使い捨てにするスタイル”から、“上質なものを長く使う消費スタイル”へと変化する過渡期であると。そして、日本人の感性と資質を武器にすれば、世界に提案できる現代の商品が必ず開発できるはずだと信じている。そのための「アトリエ・ブランマント」なのだ。
現在、齋藤さんのもとには、伝統工芸品を扱う会社の二代目や三代目、職人などが相談に訪れるという。みんなが知りたいのはブランディングのアドバイスだ。
「ブランディングとはロゴを作って名前を変えることであはりません。“どの価値を世の中に伝えていくかを考えること”がブランディングです。日本は大正時代までは海外からいろんな文化や新しい物が入ってきて、それをうまく取り入れて日本独自の文化を発展させてきました。もともと日本人にはそういう才能があるはずだから、現代でそれをやればいいのです。いま必要とされる物を作るために、自分たちが持っている技術と世界のどこに接点があるかを見定めることが大切なのです」
かつて19歳で渡仏し、孤独のなかで自らのアイデンティティーを見失い、「社会とのつながりがない限り、自分の生きる場所はない」という考えにいたり、長いフランス暮らしのなか、社会で自分が必要とされる場所をひたすら模索し、それを手にしてきた。その考えは今も変わることなく、むしろより確固たるものとなり、日本の職人や物作りへのエールへとつながっている。
「日本という国は、繊細な感性をもち、きめ細かく真面目な物作りを積み上げてきました。日本が長い間で育んできた知恵や技術を現代の社会に活かせば、世界に寄与できることがたくさんあります。それこそが日本のグローバリズムだと私は思います」
TEXT:藤井たかの
PHOTO:岩本良介